(歴史偉人伝)伊能忠敬
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(歴史偉人伝)伊能忠敬
伊能忠敬(いのう ただたか)さんをご存じですか、そうです、最初に精密な日本地図「伊能図」を江戸時代に作った方です。個人的に、彼の生き方が好きで、尊敬しております。
日本史の教科書にも出てくる方ですが、ご紹介させてください。
■伊能忠敬の人生
千葉・九十九里の商家(酒蔵)に生まれ、商売を継いで事業を何倍にもして一財を築いたそうです(一説には、今の金額に換算すると50億円ほどの財産額。)
それはそれで名経営者なのですが、50歳になってから引退、長男に事業を継承してから、高橋至時(よしとき)という天文学者に弟子入りしたそうです。この時、至時は31歳ほど、つまり忠敬は約20歳年下の学者に、天文学を習いに弟子入り。素晴らしいですね。
5年ほど至時の元で天文学を習いながら、55歳の時に最初の測量の旅に北海道に出かけます。旗のような目印を2つの位置に立てて歩測し、夜は星の位置を確認しながら方位を確認して行う測量法だそうです。
雨や嵐の日も、そして海岸線の岩場やぬかるんだ沼地も、一歩一歩、同じように測量したようです。
今でこそ、飛行機でさっと行ける北海道ですが、当時は未開の極寒の地、蝦夷地(えぞち)と呼ばれていました。今の感覚だと、東京からアラスカや北極に歩いて行くような無謀な旅だったかも知れません。忠敬は、自己資金を用意しチームメンバーを集め測量の旅に出かけます。
何度も何度も、千葉、茨城、東北地方と海岸線を辿り測量を行い、歩いては歩き、合計4回、4年間の測量(第1次~第4次測量)で今の東日本と北海道の地図が出来たそうです。この時、忠敬は60歳前後。今の年齢の感覚では70~80歳といった感じでしょうか。
幕府としては全国の藩の統治にも正確な地図が必要だったのでしょう。地図の仕上がりを確認した幕府は、忠敬のチームを幕府公認の測量隊に命じます。
幕府からの後押しを受けた忠敬は、チームを率いて60歳~69歳まで合計4回(第5次~第8次測量)にて、西日本、つまり中部、近畿、四国中国地方、九州に至るまでの地図を作成しに行きました。どれだけ毎日歩いたのでしょうか、超人的な働きだと思います。
その後、忠敬は体調を崩したそうですが、チームメンバーが伊豆地方の測量や江戸周辺のさらに細かい測量を行い(第9次・第10次)日本地図の全図の完成に向けた作業をしている最中に、忠敬は1818年に鬼籍に入ります。忠敬、享年73歳。
その3年後、1821年に、メンバーより日本地図「大日本沿海輿地全図」「大日本沿海実測録」を完成させ、幕府に正式に提出がなされました。これらの地図は一般的に「伊能図」と呼ばれ、伊能忠敬及びそのチームメンバーの功労が今でも語り継がれています。
■伊能忠敬のすごさ
●家業を何倍にもして事業で成功、さらに事業承継にも成功
●当時の先端学問である天文学を、20歳年下の先生から謙虚に学ぶ。今でいうリカレント学習ですね。
●「正確な日本地図」を作ろうという目標を掲げたビジョナリー・パーソンでもある。
●自分でリスクマネーを出し資金を工面し、チームアップしていくベンチャー精神とリーダーシップ
●正確な測量、精緻な地図の仕上がり。政府(幕府)に東日本の測量を行って成果物である地図を提示し、実績を認めてもらい、幕府公認の測量隊として、さらに地図作りを加速させていった。
●自分が測量の旅に出ていけなくなっても、チームメンバーが意思(遺志)を継ぎ、地図を完成させた。技術と人材を遺した功績。
千葉県の香取市佐原には、伊能忠敬記念館があります。また香取市のホームページには伊能忠敬の特設紹介ページがあります。
また、東京には江東区・門前仲町駅近くの富岡八幡宮入口に伊能忠敬の銅像があります。ここから全国の旅に出かけたそうです。お時間あれば、是非足を運んでみてください。
(写真)富岡八幡宮の伊能像
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