(歴史偉人伝)フローレンス・ナイチンゲール

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(歴史偉人伝)フローレンス・ナイチンゲール

視覚皆さん、ナイチンゲールさんをご存じですか?医療や介護に携わる方なら、彼女のことを「近代看護教育の母」「看護師の祖」としてを学ぶかと思います。

ナイチンゲールの生涯とその功績をたどってみたいと思います。

 

◆ナイチンゲールの生涯

フローレンス・ナイチンゲールはイギリス人で、1820年に裕福な家庭に生まれた。若いときに高等教育を受けた後、1854年にクリミア戦争に従軍。当時、イギリス・フランスの連合軍は、ロシア帝国と黒海にあるクリミア半島で激しい戦争を繰り広げていたのである。

 

ナイチンゲールはイギリス軍とともに看護スタッフ38名のチーム(シスター24名、看護師14名の構成)に加わった。当時、女性の地位は低く、また看護の概念が確立していなかったことから看護師は病人の世話係の扱いであった。

 

従軍後もナイチンゲールらは仕事上の権限が与えられず、傷病兵の治療を行うことを許されなかった。劣悪な環境の野戦病院では、傷病兵が溢れかえり、まともな看護や治療を受けることもできず、ただ死を待つための場所に過ぎない状態であった。

そこで機転の利くナイチンゲールは、自分の目で見た惨状を手紙で母国イギリスのエリザベス女王に訴えかけ戦地への支援を要請する一方で、荒れ果てていた現地病院のトイレ掃除や衛生改善から始め、軍人の信頼を勝ち得ていった。

 

ナイチンゲールが、戦地の病院で行った主なことは下記の通りである(著書「看護覚え書き」より)。

■換気の励行、室内の暖房

○飲み水、空気、下水、トイレ等の衛生環境の整備

○看護師を小単位のチームとして構成し、リーダーを中心としたチーム看護を実践した。

○食事を患者の体調に合わせて調整し、食べやすく調理した。栄養バランスを考慮した。

○ベッド、寝具類を清潔に保ち、汚れたシーツや衣服を交換、洗濯して衛生を保った。

○病棟内を清潔にするために、部屋や壁も掃除し、濡れ雑巾で拭いて清掃した。

○患者の体を拭いて、患者の衛生を保った。また、患者の枕元にベルを置いて、現代でいうナースコールを導入した。

○騒音を排除し、看護師にも内緒話をさせないで、患者の精神安定を図った。患者に対して看護師が無意味な励ましや根拠の無い希望的観測を述べることを禁じた

○患者の表情、顔色、排泄物をしっかり看てこまごまと観察した

 

ナインチーンゲールには有名なエピソードはたくさんある。

◆重傷を負った患者に寄り添い、よく観察することで患者の自殺を防止し、患者にも自殺しないことを約束させた(自殺の禁止、自殺の防止)。

◆患者の食事内容をよくチェックするとともに、患者が売春婦を利用していないかチェックし衛生面の管理を徹底した。

◆備品や医師が足りず、医療現場が混乱している時には、ナイチンゲール自身の給料から自腹で備品を買い求め、医師への謝礼を払った。

◆軍隊のルール上、施錠した薬箱の開封を拒む軍人から薬箱奪い取り、地面に叩きつけて開封。薬を箱から取り出し患者の治療を優先した。

◆当時、直接手紙を送ることができないエリザベス女王にも直接、戦況や現場を知らせる手紙を書き、王女の権威を医療現場の改善にも利用した。

 

こういったエピソードから、ナイチンゲールは、女王や軍人などの権威も恐れずやると決めたらとことんやり遂げる猪突猛進タイプであり、また、医療現場の改善と患者の看護に心血を注ぐ義侠心の強い人物であったと言える。

 

ナイチンゲールの2年半の現場での奮闘と看護ノウハウの導入により、クリミア戦争における軍人の死亡率は42%から2%へ減少し、劇的に改善された。2年半の従軍を経てナイチンゲールはイギリスに帰国し、ヴィクトリア女王と謁見し勲功を称えられた。

 

周囲の人々はナイチンゲールを英雄にしようとする動きがあったが、ナイチンゲールはそれを好まず、その後は偽名を使って身を隠しながらひっそりと生活した。

 

帰国後、ナイチンゲールはクリミア戦争での状況や看護結果について宿にこもって分析し、報告書「野戦病院での死亡統計」を執筆した。この報告書には、扇状の円グラフ「鶏のとさか」が作成され、複雑な統計結果を一目で簡易に表現するグラフ(今のレーダーチャート)が利用された。ナイチンゲールは、看護師としてだけで無く、看護や患者観察から蓄積したデータを取りまとめ、分析し、分かりやすく表現する統計学者としての一面があったのである。

 

(図)ナイチンゲール作成の「鶏のとさか」

クリミア戦争における月ごとの死亡人数、死亡原因のデータを可視化した。

 

帰国して数年後の1860年、ナイチンゲール40歳のときに、富裕層の支援を得てナイチンゲール看護学校を設立。また、同年看護学の研究結果を「看護覚え書」という書籍にまとめた。1863年にはスイス銀行家 デュナンの支持と資金を得て、国際赤十字社の設立を行った。しかし戦地での疲れやハードワークが祟ったのか、40歳前後から亡くなるまでの約50年間は病床に伏す生活を送ったと言われている。

 

ナイチンゲールは、生涯を看護師として生きたと思っている人が多いが、看護師としての活動はクリミア戦争に従軍した2年半に過ぎなかった。しかし、彼女は野戦病院での過酷な看護現場で得た貴重な知識・経験を、高進に伝えることに集中した。

 

ナイチンゲールは、看護というものを職業として確立させ看護教育家として「看護師」の定義を世に示した。また彼女には、先述の通りデータを駆使した統計学者として、さらに社会平和のために活動するという社会起業家としての側面もあった。

 

ナイチンゲールは、看護学の開祖、教育者、統計学者、社会起業家として、前例のない実績を残した偉人である。

 

最後にナイチンゲールの言葉を共有したい。「天使とは、美しい花をまき散らす者では無く、苦悩する者のために戦う者である」

 

看護師のバイブル「看護覚え書き」

 

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